田中祐次の生涯

故 田中祐次 享年83歳

※戦争体験のビデオがまちがっていました。リンク修正しました。(2021/12/15)

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 田中祐次(ゆうじ)は、昭和13年(1938年)1月22日、田中誠次(せいじ)と菊枝(きくえ)の次男として、東京本所(現在の墨田区)で生まれました。

本人と兄弟、両親、祖父

3月10日の東京大空襲で田中誠次が行方不明となり、菊枝と兄弟4人と、親戚のガラス店を手伝いながら育ちます。(戦争の話を同窓会館で話したビデオ)

今川中学時代の田中祐次と将来の妻、和子

今川中学校、日比谷高校と進み、家のガラス店を手伝いながら小学校の先生になりたいと、学芸大学に進学しました。田中熊次郎先生の研究室に入り、なんと首席で卒業したそうです! その後、東京教育大学の大学院にすすみ、最初の就職先として、信州大学教育学部に赴任します。

友人と犬吠埼へ

学校の仲間と

この何年か前、1965年に、中学・高校の同級生(旧制)佐藤和子(かずこ)と学生結婚します。

和子の母と祖母と

1965結婚

大島に旅行?

当時、佐藤和子は、和子の父=佐藤鉄四郎を無くし、神田寺にて友松円諦先生にお世話になっておりましたので、田中祐次は「結婚にあたり、お父さん代わりの円諦先生にご挨拶をした」と申しておりました。

聡と知子、5歳と3歳

赴任した長野市にて、1969年長男が生まれます。「聡明叡知」の聡をとって「さとし」と名付けます。そして3年後に長女が生まれ、「聡明叡知」の知をとって「ともこ」と名付けました。長野では、兄の事業が大変な時期、兄の子供4人と父の母を長野に引き取り、合計子供6人を数年世話をしていたこともありました。また晩年は父方と母方の2人の祖母=祐次の母と和子の母を新潟に呼び寄せ、2人の晩年を一緒に過ごしてもおりました。母=和子も大変だったと思いますが、優しさからの行動だったのではないかと思っています。

 1969 研究室の面々と?


信州大学の学生と

仕事としては、教育心理学を専攻として、小学校の先生の育成に従事しました。

その中で、統計学の延長で「コンピュータ」と出会い、信州大学の初めての電子計算機導入に奔走したそうです。

クルマでアメリカ大陸横断

大学めぐり:UCバークレー

1977年には研究員として、アメリカに1年間留学します。その際、家族3人を連れて行くことにしました。アメリカでは「自動車で大陸横断したい」と家族をつれてサンフランシスコからボストンまで自動車旅行(引越しを含む)もしました。帰国の際には「渡航時に購入した航空券が円高で高騰したので売って。家族4人でハワイ経由で帰れた」と話してもおりました。結果、米国50州のうち29州をめぐったというのも自慢だったようです。

文教大学PTA=父母と教職員の会 新潟大会

1985 講演会にて

学会を口実に沖縄へ

帰国後、もっと仕事をしたいと、私立文教大学に転職します。埼玉県八潮市に引っ越します。文教大学では情報学部の立ち上げに奔走し、PTAにも力をそそいでいました。この時代その後も「学会」を口実に妻=和子をつれて旅行をしてようです。

そして再び、「現場仕事より研究活動がやりたい」と鳴門教育大学大学院に転職します。今度は徳島県鳴門市に引越しです。

2000 ほっとタイムの会

そして、4度目の引越し(転職)をします。新潟大学です。この新潟時代に特別支援学校の校長を請け負います。小学校ではありませんでしたが、児童教育の現場の長を担えたことは、本人にとっては夢の実現だったようです。

65歳で1度目の定年を迎え、十文字学園女子大学赴任(再就職)します。埼玉県新座にある学校で、はじめは新潟から通っていましたが、その後、転居しました。

70歳まで十文字学園で勤め、退官しました。

退官後は、埼玉時代から始めていた「相談所」と自称していたカウンセリングの仕事をしながら、書き物を仕事としていました。カウンセリングでは、主に障害児や親御さんの相談にのっておりました。


カメラは好き

スキーは長野で覚えた

新しい機械が大好き

仲良しだった東京学芸大時代の面々と同窓会

マンションの夏祭りでハーモニカ演奏

プライベートでは、ものを作ったり機械いじりをしたりするのが好きで、そのための道具も大好きでした。

長野時代はアマチュア無線に凝っていました。公務員宿舎(いわゆる団地)の庭に10m超のアンテナをたてたりして(いまではありえないw)海外とも通信していたようです。

その延長もあって、埼玉に越してからはパソコンにはまります。ですので、歳をとってからもこのあたりはあかるく、デイサービスなどに行ってもスマホやiPadを使いこなし周りのおじいちゃんおばあちゃんに教えていたようです。

音楽も好きでした。憧れはピアノとクラリネットだったようですが、初心者の域はぬけられなかったようです。ただ、ハーモニカだけは人に聞かせられるギリギリのレベルだったようで、肺活量が下がってくるまでは吹いていました。

あこがれだったらしく、社交ダンスも習い始めました。しかし、母が亡くなり、直後に頸椎症を患ってしまい、断念したようです。

また、晩年は「歌舞伎」にはまって、歩行器を使いながらもひとりで電車で東銀座 歌舞伎座まで通って観に行っていました。


アメリカの濃い食事がきっかけと言っておりましたが、そのしばらく後あたりから糖尿病のスタートのようです。新潟への赴任の際に「狭心症」が見つかり、何度かステント挿入の手術をします。

心臓バイパス手術もしました

首(頸椎)にビスうちました


退院後は、シルバーカーで街歩き(2017)

いっとき、片手杖であるけるまでに回復
リハビリがんばりました!(2018)
2019年の動画はこちら

2014年に妻=和子と死別したのち、「これ以上ステントがいれられないので」ということで心臓バイパス手術をします。この手術の際、すでに兆候がみられていた頚椎症を発症。いっとき車椅子生活なりましたが、首の後ろからと前からの手術を経て、リハビリも頑張り、歩行器をつかっての歩行ができるまで回復しました。しかしながらその後、糖尿病からの腎不全で人工透析に。バイパス手術の効果もきれて心臓が弱まっている中、糖尿病による足傷の悪化入院、最終的にはMRSA(耐性ブドウ球菌)による感染症から敗血症にて、2021年7月3日1:00 草加市立病院にて永眠いたしました。

いっとき、ブログを書いておりました。
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最後に、
幼少時の空腹のせいだと本人はいっておりましたが、とても食いしん坊。食べ物には目が無い人でした(笑)
そういえば、見て盗んだ「握り寿司」も自慢で、学生を自宅に招いて振る舞っていた頃も思い出しました。


2020 念願の伊勢海老

 2021 あんこう鍋


2020うなぎが大好物

2020 透析の摂水制限下でもかき氷は食べたい

2021 83歳のお誕生日

ありがとうございました。


(7/8追記 写真を整理してUpしました。)
(7/25追記 同窓会写真が出てきたのでUpしました。)
(7/25追記 同級生の方からのお電話で「首席で卒業」と聞いたので追記しました。)
(7/25追記 父母教のプログラムが出てきたので写真を抜粋しました。)
(8/20追記 1985,2000の写真を追加しました。)
(12/8追記 業績管理サイトのリンクを追加しました。他。)
(12/15追記 戦争体験のビデオのリンク先がまちがっていました。修正しました。)


追伸(息子より):
父の埋葬先は、清澄白河になります。アクセスはこちら
個別のご連絡は、私のfacebookまたはtwitterあてにご連絡いただければと存じます。


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