父のブログより「私の戦争体験(3)三月十日東京大空襲のこと」

私の戦争体験(3)三月十日東京大空襲のこと

~兄の帰宅と父の死(田中祐次のブログ?の中から発掘)~


10歳の男の子が本所から柴又まで一人で

学童集団疎開していた兄には夜尿症があり、父は時々疎開先を見舞っていたが、3月に入って何日かは確かでないが、父は兄を本所の家に連れ帰っていた。父は長男の兄をとても可愛がっていたのでいつも手許に置いていたのである。あにはそこから学校にも通っていた。集団疎開に行かない子、行けない子たちが少数だったが1クラスあったという。

3月9日は金曜日で、父のつとめていた微用先の工場の土曜日の仕事が済めば「土曜日の内には柴又の家に行けるから、一足先にお前だけお母さんのところへ帰っている」といわれたと言って、ひょっこり家族のところに帰ってきた。「鮒ののっこみの時期でよくつれるだろうからミミズを集めておきなさい。」と父にいわれたとも言った。

しかし、当時4年生(満10歳になろうとしていた)だった兄が一人で、本所菊川町の家から都電に乗り錦糸町まで行ってそこから歩いて押上げまで行き、京成電車に乗っで紫又までやってきたのは、今考えると驚きである。もっとも、それまでにも兄はサイドカー付きの自転車に乗せられてよく行き来していた。自転車なら、三ツ目通りから浅草に向かって進み、押上を通過し、四つ木の橋をわたって立石から金町方面へ曲がって柴又までという道はほぼ京成電鉄線と平行な道だったので、いつの間にか学習していたのであろう。それにしても自転車でというのは今では考えられないことだ。

自動車は無かったといっていい。携帯電話などはむろんのこと、固定電話も一般にはなく、本当に限られた特別の家だけにしかなかった。


3月10日未明の大空間「九死に一生」とはまさにこうしたことなのだろう。結果として兄は命を失わずにすんだのである。父の兄への愛情の現れなのかもしれない。

何時頃からか確かな記優はないが、「東京が空腹だ」という近所の人たちの騒ぎで目を覚ましたとき、神棚から榊がいけてある花瓶が落ちてきて水がこぼれたのを母が雑巾で拭いているのを見た。

縁側にたって見ると、遥か遠くの東京の空が真っ赤に染まっているのが見えた。我が家は平屋建てだったが、周りは田園だったので、視野を妨げるものは何もなく、東京の空が見えたのである。

翌日の朝、「無事ならお父さんは帰ってくる」そう母は言って一睡もせずに父を待っていたが父は帰ってこない。母は父が隣組の服組長だったこともあり、空襲で隣組の世話などで忙しいのではないかと思っていたのである。しかし父は翌日1日待ってもやはり帰ってこなかった。待ちきれなくなった母は、月曜日は兄が本所の中和小学校へ投稿する日でもあったので、兄に「お前、学校に行って、ついでにお父さんの様子も見てきなさい」と言って、本所に向かわせた。当時学校では半日授業で、特に弁当など持たせなかったようである。母には7歳になったばかりの私と4歳の妹、そして1歳4ヶ月になろうとしていた乳飲み子の弟がいた。それで動きがとれないと言うこともあったのであろうが、何よりもまさか父が戦火に参き込まれたなどとは全く想像さえしていなかったためであろう。とにかく、兄は出掛けていった。

現在のように携帯電話があるわけではない。私たちは、ただひたすら父が兄を伴って帰ってくるのを待つしかなかった。いずれ帰ってくるだろう。そんな期待をごく当たり前に持って待ち続けた。

夕刻も近づいた頃、今か今かと待っていた母は私と妹を留守役にして、弟を背負い駅まで迎えにいっていた。私も妹の手を引いて玄間をでて遠くから母たちが帰ってくるのを目を凝らして待っていた。やがて遠くから母と兄二人だけが歩いて来るのが見えた。そしてそのあゆみ方に何か期待されるものは感じられなかったことを今でも印象深く覚えている。途中まで駆け出して行ったのを覚えている。母は私たちに向かって言った。「お父さんは死んだかもしれないって」。私は背筋に冷たいものを感じたが、まだ何のことか理解できてはいなかった。母は道すがら兄の報告を聞いたのであろう。

しかし、涙を流してはいなかった。緊張感があった。


大空襲直後の惨状との遭遇

兄は、父に会えるとばかり思っていたのであろう。また何の不安もなくいつも通り京成電車に乗った。

その後のことについて、兄はそのとき私には直接には何も言わなかった。ただ母が少し説明してくれただけだった。その兄も、この文を書いている今すでに75歳を超えている。今や3月10日の東京大空襲の惨状を児童期に直接体験した貴重な一人といえる。

以下、彼から聞いた話をもとに再現してみるとこうである。


電車は四つ木の橋で、これから先は不通といわれ、仕方なしそこから歩き始めたという。すでにあたりは家が焼けていて向島に近づいた頃から防空壕の中などに焼け死んだ人がいるのが見られ、次第に怖くなったという。

それでも兄は歩いて家に向かった。ただひたすら学校へ行かねばと思う気持ちと父にさえ会えればと言う気持ちが恐怖にうち勝つ支えだったのであろう。しかし、いえに近づくにつれて次第に焼け死んだ人の山が目立つようになったという。家もほとんどみんな焼けてしまっていて全くの焼け野原になっていた。自分の家がどこかもわからないぐらいだった。それでも、近くに行けばきっとお父さんに会えると思って一生命歩いていったという。

いえの近くにきたとき、家の並びにあった八百屋のおぱさんにあった。「お父さんは帰ったかい?」ときかれた。「まだだ。」と答えると、「じゃ、やっぱりだめだったのか」と言う。「みんなが逃げ始めたとき、あなたのお父さんは自転車で楽に行くと言って出発していった。でも、もしついていないのなら死んでしまったのでは?」と言う。そして隣組68人のうち生きているのは貴方を含めて8人だけだという。当のおばさんの嬢さん(当時女学校生)も死んだ。お風呂屋さんの番台で一緒に番台役をした少し年下の女の子も死んだという。

見覚えのある用水槽があった。自分の家の店のまえに街路樹がたっていてその傍にあった防火用水槽である。しかし、その用水橋には背中に子をおんぶしているらしい真っ黒焦げの死体が顔をつっこんでいた。絶望だった。そのとき10歳になったばかりの兄はどうしていいかわからなくなり途方に暮れたという。急に力が抜けたのであろう、ただ立ちすくんで泣いていたという。

すると、見知らぬおじさんがよってきて、「どうしたんだ?」と聞かれた。事情を説明したところ、「おじさんも同じ方に行くから一緒に行こう」と言ってくれたという。

焼け死んだ人たちは随所に固まりになっていたという。奇跡的に生き残った八百屋のおばさんはどうして助かったのかは言わなかったが、熱い炎の中で、人は皆固まりになって熱さを逃れようとした。なるべく固まりの中心に入ろうともがきあう。結果として力の強い男の人が固まりの中心に入り込む。それでも助からないでみんな焼けこげて死んでいく。その話の通りだった。至る所にそうした固まりがあった。また足もとに真っ黒に焼けて骨だけが残ったような遺体が転がっていてそれをまたいで歩かなければならなかった。三の橋の下の川も死体でいっぱいだった。空襲からすでに3日がたっていたのにまだまったく手は施されていなかった。


母と兄の父の遺体探し

戻ってきたばかりの兄に母は「これからいってお母さんもお父さんを捜す。あなたも一緒に行ってちょうだい」と言った。まだ母には状況がつかめなかったのであろう。兄は「いやだ」と答えたという。もう日が暮れかかっていたし、真っ暗な中ではどうしようもないことを一生懸命説明したという。またあの惨状を見るのは本当にいやだったのだ。

結局翌日、母は末の弟を背負い、また兄を伴って出掛けていった。私と妹は留守を言いつけられた。私はその留守番役が持つ意味の重大性に身が縮まっていたことを思い出す。妹を預かったという責任感を感じていた。

昨日あった向島付近の焼けこげ死体はこの日には片づいていたという。兵隊さんたちが盛んに働いていた。しかし、家の近辺の様子は昨日と全く変わりない状況だった。三の橋のふもとにあった工場の石の塀に焦げ付くように張り付いていた焼けこげ死体もまだそのままだった。川の中の死体も同様であった。

さぞあてどもない捜索であったと思われるが、最後に届けだけでもと思ったのであろう当時震災記念堂のとなりにあった本所区役所に行ったという。しかし、焼けただれた建物だけがあっただけだったという。

夕刻、疲れ切った様子で兄と母のみが帰ってきたことは言うまでもない。母はさすがにあきらめきった状態であった。二人が言葉に表せない惨状の中を父の遺体を探してさまよった様子は、その後少しずつためいきに混じって母の口から漏れた。まだ成人にも達していない子どもにあのような惨状を見せたことを悔いる言葉を聞いた。


私の焼け跡体験

それからの日々は、ひょっとすると父が帰ってくるかもしれないと言うほのかな期待の日々だった。誰も大声では口に出さなかったが、そうした期待が一家にあったことは確かである。

3月も末になった頃と思う。母が、私のことを焼け跡に連れて行くと言って、連れて行かれた。私も是非見てみたいと思っていたので、何となく期待を持ってついて行った。

多分押上から歩いたのであろう。家のあったあたりに着き、母がにここが家のあったところ」と言った。「家の防空壕(父が作ったもので手伝ったのを変えている)にもたくさんの人が死んでいた。でも、知っている人たちではなかった」ともいった。しかしさすが、すでに遺体は片づいていて何の痕跡もなかった。私はみおぼえのあるものがあるのに気づいて焼け跡に足を踏み入れた。レコードが束になって半分溶けて固まったものだった。よく蓄音機にかけて聞いていたので箱に入っていたものが箱は燃えてしまっていて中身のレコード数十枚がくっついたまま溶けていたのである。そのとき母が言った。「まだ死んだ人のもの(体の一部の意味)があるかもしれないからあまり入らないで」。私はあわてて飛び退いた。周囲に人はあまりいなかった。家は全く焼け果て、焼けこげた柱などもまったくないまさに焼け野原という状態だった。家の前のアスファルト道路には六角型のくぼみがそこら中にあるのを見た。焼夷弾が落ちてきて路面に当たったとき、めり込んできた跡だとすぐにわかった。

家があった頃の情景がよみがえってきた。それを思い起こしながら、浅事方面に向かって歩いた。ついたところは隅田公園だった。わずかに木々が残っていたように思う。

桜の花も咲いていたはずであるが、明確な記憶はない。1年前の春には父ときょうだいで花見にきたところだった。そこに土葬のお墓らしいものがあった。一つではない、ずらっと並んでいるのだ。よく見ると一つひとつに札がついている。名前が付いている。

母は「お父さんのがあるかもしれないから探そう」と言う。私も必死で一つひとつれを確かめた。周じようなことをしている人がたくさんいた。皆無言だった。

父の名前はなかった。見渡す限りに死んだ人の土葬の基があるのに、その中にいない。しかしむしろこんなにもの人たちが死んだとなると、父もやはり死んだのかもしれないと思ってしまう。


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この文章に出てくる10歳の兄=敬一は、2021年11月に亡くなりました。乳飲み子だった末の弟=康照も、2022年1月に亡くなりました。この文章は、敬一おじさんの葬儀の時にいとこが持ってきてくれたものから文字起ししなおしたものです。(なるべく原文ママとしましたが誤字など修正箇所もあります。) 2023年6月、父の三回忌のあと掲載。

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